日本の歴史って興味ある?歴史が面白くなるかも??旧石器時代から弥生時代までの歴史を一気に解説!

はじめまして。龍です。秋田市で学習塾を営んでおります。

今回は趣向を変えて、日本の歴史についてのブログを書いてみたいと思います。

私の塾は中学生が多いのですが、歴史って苦手という生徒が多いんです。

歴史は楽しいのにな・・・と思うのですが、担当の先生が嫌いだとか分かりづらいという理由で嫌いになったりするケースもあるようです…(泣)

興味がなければ覚えないし、ただの暗記科目になるのもつまらない。

このブログを読んでくれた生徒や一般の皆さんが、ちょっとでも歴史に興味を持ってくれたらうれしいな、と思って始めてみました。つたない内容かと思いますが、よろしくお願いいたします。

なお、基本的に中学生以下の生徒にも分かるように、歴史の詳細な部分は飛ばしたりしてます。なにせ授業の内容をわりとそのままアップしてますので…

そのあたりのところについてはどうか温かい目でご理解いただけますと幸いです。何とぞご了承ください。

旧石器時代って日本にもあったんだ!?

はい、ずいぶん昔には日本には旧石器時代は無かったという説が多かったんですね。

でも相澤忠洋さんという学者が群馬県岩宿遺跡を見つけてから「旧石器時代は日本にもあったのね」ということになりました。

旧石器時代を表すキーワードは、マンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカといった大型動物はだいたいこの時代です。日本列島とユーラシア大陸(中国のある大陸)は陸続きだったころもあったんですよ。

使われていた道具は「打製石器」。黒曜石やサヌカイトなどが材料になっていたようで、サヌカイトは北九州から瀬戸内・近畿地方周辺、黒曜石は関東・中部・東北北海道と広範囲に分布していたんだよ。

縄目の文様の縄文土器からのネーミング?縄文時代

縄文時代の特徴をピックアップしてみました。

  • 厚手で黒褐色の土器を使用していた。表面に縄目の文様がついていたので縄文土器と名付けた。だからこの時代を縄文時代、文化を縄文文化と呼んだ(このネーミングセンス…)
  • 打製石器のほか、石を磨いて作った磨製石器を使用していた。(石を磨くから磨製石器、分かりやすいでしょww)
  • 狩りや採集をしていたので、移動しやすい竪穴住居を建て、人々が集団で生活していた。
  • 貝殻や魚の骨などの食べかすなどはまとめて捨てていたため、貝塚となった。
  • 大人になったことを示す儀式として抜歯、死者の霊の災いを防ぐために体を折り曲げて葬る屈葬といった風習もあった。
  • 魔除けや豊作を祈るために土偶が使用された(縄文時代土偶古墳時代は埴輪、よく間違えるので注意です!)。
  • 縄文時代の遺跡は青森県三内丸山遺跡

縄文時代は基本的に少人数でむらなどを作り、狩りと採集をしながら移住生活をしていたようです。

また海の神様、山の神様、といった目には見えない神様を信仰し、その祈祷や祭祀なども行われていました。いわゆる「精霊信仰(アニミズム)」であり、そこから八百万の神が生まれ、その神々を祭った祠や神社が各地にあります。

イメージが湧かない方はジブリ映画の「千と千尋の神隠し」の湯屋での綱引きのシーンの際、後ろのほうで応援していた諸々の神々様を連想すると良いでしょう。

すべての始まりは「稲作」伝来?!弥生時代

縄文時代の後期あたりから朝鮮半島からの移住者が増えてきたようです。この頃の朝鮮半島はいくつかの国に分かれて争っており、決して治安は良いほうではなかったのでしょう。また秦の始皇帝の命を受けたとして徐福が日本にやってきた、というような伝説もありますので、日本の存在は大陸ではある程度周知の事実だったのでしょう。

戦乱を避けて日本に来た人々がいてもおかしくはありません。ただ、はっきり言えるのは、この当時「少なくとも文化レベルは日本より上」ということです。

ようやくたどり着いた朝鮮人の方々はびっくりしたでしょうね…

集落を見つけたと思ったら獣の皮で作った腰蓑のようなものを着て、言葉も通じず、石やら土器やらの中からどんぐりや焼いた動物の肉、魚やらを食べさせられるのですから、「ここはどこ??」となるでしょう。

「原生林の樹皮に張り付く苔 」の写真

稲作の伝来

誰が伝えたのかは定かではありませんが、「米」のつくり方を教えてもらった日本人の生活スタイルは大きく変化することになります。

  • ねずみや湿気を防ぐために高床倉庫が作られた。
  • 土器も手間のかかる縄文土器からやや高温で焼かれた赤褐色の、薄手でかたいシンプルな土器が作られ量産された(これが弥生土器と呼ばれ、この時代を弥生時代、文化を弥生文化と呼ぶのは全く同じ流れ…)。
  • 水田の近くにむらをつくり、移住生活から定住生活に変わる(田んぼがあるのにあちこち移り住むことはしませんからね)。

さらに稲作とともに、青銅器や鉄器も伝わりました。(この青銅器や鉄器を合わせて「金属器」と呼んでいて、テストに出ます。ただ、この時代は鉄器よりは青銅器の方がメインで、見分け方とすれば青銅器は弥生、鉄器は古墳、と覚えてもいいかもしれません。)

青銅器は銅剣・銅鐸・銅矛などが作られ、祭りに使う宝物として使われました。鉄器は農具・工具に使われたようです。銅剣や銅矛、鉄器は武器にも使われることになります。

弥生時代の代表的な遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡と、静岡県の登呂遺跡が有名ですね。

国の誕生

洋の東西を問わず、人が集まれば必ず支配する側と支配される側が作られます。リーダーがいないとまとまりませんし、そのリーダー1人だけでは出来ることは限られるからです。

このように各地のむらにリーダーを中心とした組織が出来上がると、周辺のむらに攻め込んだり吸収したりしながら規模を大きくして「国」がつくられるようになります。そしてその国を支配する有力者(豪族と呼んでいました)や王が出現しました。

この日本の様子は、中国の漢(前漢)の「漢書」地理志に記載があります。その中に紀元前1世紀ごろ、倭(日本)に100余りの国があり、なかには楽浪郡を通じて漢の皇帝に使いを送る国もあったということです。

ちなみにこの時代、日本は中国(漢)から「倭」と呼ばれていました。諸説はありますが、中国は今も昔も中華思想ですので、自国がNo.1でその周辺国は劣っている(もしくは野蛮な国)という扱いから、周辺国には蔑称をつける傾向がありました(北方の騎馬民族には匈奴鮮卑など)。日本も「倭」という呼称が定着しましたが、のちに「大和」「日本」という国称に変わります。

ただ、「わ」という呼称は漢字は変わりますが「和」として「英和辞典」「漢和辞典」というように日本語を表す言葉として現在も使われています。

倭の奴国王の使い

また「後漢書東夷伝にも記載があり、これがよくテストに出ていました。

「倭の奴国の国王が漢(後漢)に使いを送り、金印を授かる」は絶対暗記のフレーズです(笑)

この金印は福岡県で発見され、そこには「漢委(倭)奴国王(かんのわのなこくおう)」と刻まれていました。まあ、要は「あなたを漢の国に属した倭の国王として認めてあげるよ」という認印ですね。そうすることで奴国王は「私のバックには漢がついているんだぜ」と言って周辺諸国への圧力に使えるため、いわばその証明印的な意味もあったのでしょう。

邪馬台国の女王卑弥呼

3世紀頃、中国では魏・呉・蜀の三国時代に突入します。いわゆる「三国志」の時代ですね。このころ日本では「邪馬台国」という国がありました。場所がどこにあったかはいまだにはっきりしていません。

この邪馬台国は女性が治めていて、その名を「卑弥呼」と呼ばれていたそうです。

この卑弥呼が魏の国に使いを送って、当時の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印や銅鏡などを授けられたと「魏志倭人伝」に記載されています。

この時代は日本でも争いが多く、邪馬台国はその国々でもけっこうな勢力を誇る国だったらしいです(30国ほどを従えていたと記載があります)。

精霊信仰が当時は普通でありましたので、卑弥呼は呪術的な手法(神のお告げ、的な)で国の政治を取り仕切っていたようです。

卑弥呼にはエピソードもたくさんあって、日本の最も信仰されていた神様は「天照大神」でいわゆる太陽神、その巫女である卑弥呼が日食を予見できなかったためにその統率力を失い殺害された、とも銅鏡を光に当ててその影や像を使って人々に指示を与えていたとも言われていますが、本当のところはどうかは分かりません。

いずれにせよ卑弥呼の死後に壱与が後を継いで魏に使いを送ったのちは、邪馬台国の情報はプッツリと消えてしまったようです。

さてここまでが旧石器時代から弥生時代までのご紹介でした。かなり私見も入り、ところどころ詳細を割愛しているところもあって専門家の方がご覧になったら激怒しそうな内容かもしれませんが、そこは温かい目で見ていただけたら幸いです。

次回は古墳時代以降をご紹介したいと思います!それではさようなら!